雑記・日記

確信犯は誤用ではなく表現

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確信犯の意味

政治的・思想的または宗教的信念に発して、それが正しい事だと確信して行う犯罪。

文化庁より

上記は、国語辞典で調べた『確信犯』の意味になります。
これに転じて「悪いことだとわかっていながら行われた犯罪や行為」という意味もあります。
後者について、誤用と叫ぶ者がやたら目立ちますよね。

確信犯は誤用じゃない?

前置きは省きましょう。
確信犯を誤用と指摘するのを止めませんか?

これをテーマに、今回は進めていきたいと思います。
基本的に引きこもりな僕ですが、人脈は割と広い方です。
大学の頃は恥ずかしいくらい意識高い系だったんで、闇雲にネットワークを広げていました。


その人脈の中に文学の博士号を取得した方がおり、そいつと再開した時に『誤用問題』について議論しました。
なお、本項では日常生活における「確信犯」「役不足」等の表現が誤りではない前提で話を進めています。
なぜ誤りではないかは、どっかの記事をご覧ください。

「確信犯」「役不足」「敷居が高い」「黄昏れる」
この辺が誤用問題とされてる言葉の代表例でしょう。
これらについて、「何故、誤用と言われるようになったのか?」「いつから言われるようになったのか」「どのような人物が誤用と叫んでいるのか」等々、色々と分析してみました。飲みながらの談笑だったんで、別に研究って程ではありませんけど。

どうして誤用と言われるようになったか

さて、どうして誤用と言われるようになったのか。
夏目漱石や芥川龍之介だって使用している単語です。昭和以前では騒がれなかったのに、どうして平成になって誤用の声が上がり出したのか。
結論から言うと「漫画・アニメの普及により、小説を読む者が激減した」という理由に行き着きました。

ひいては、現代人における表現力の劇的な低下と考えています。
それと……凡人による承認欲求にも基づいているかもしれません。

小説を読む者が激減――という点は簡単ですよね。
「確信犯」「役不足」「敷居が高い」「黄昏れる」
……小説における表現として多く使われてきた単語です。
そして、当時はそれらに違和を感じる者はいませんでした。

全ては表現なので

例えば、小説にて「彼は、窓際で黄昏れていた」という文脈があったとします。
文字だけで状況を伝える小説では、表現力こそ命です。
暗い雰囲気や落ち込んだ様子を「黄昏れている」と表現するのは非常に的を射ており、容易に人物のテンションを演出できます。
初めて小説を読む方でもあっさり受け入れられる表現でしょう。
なので、定着します。 みんな使うようになります。

表現力が失われた現実

しかし、平成に入って、アニメや漫画のように絵で状況を説明できるようになると、途端に従来の「表現法」に違和感が生まれてきます。
絵を見ればわかることに対して、「黄昏れてるな」なんてセリフがあると、人は疑問に思うようになってしまいます。
一度も小説を読んだことの無い者が「黄昏れてる」等の表現を目にすると「黄昏れてるって意味ちげぇよw」と思い始めるかもしれません。
本当は疑問に思う程でもないんですが、そこで承認欲求が顔を出し始めます。
細かい心理作用は割愛します。

全て持論なので……

自分の国語力を他者に認められたい気持ちから、誤用と叫ぶようになったのではないでしょうか。
芸能人を見つけるとカメラを向けてしまう心理に似ています。
なんとなく見つけた偶然を、ヒトは高らかに他者にアピールする傾向があります。
ミーム論や情報処理論ではよくある話です。
現代にはインターネットがあるので、簡単に自分の言葉を発信させられるようになりました。
あとは集合行動論により、実は誤用ではない『表現法』を次々に指摘するようになった。

結論:分からない

……以上になります。
もうちょっと理論的に纏められたんですが、これ以上の説明に意味は無いと考えました。
なにが言いたいかって言うと、タイトルに記載した通り「誤用と叫ぶのは止めよう」ということ。
小説家や有識者は総じて誤用と思ってないので、指摘するだけ馬鹿扱いされます。
嫌ですよねぇ? 自分の方が頭が良いって思いながら指摘してるのに、実際は逆だなんて。

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